『妻を帽子とまちがえた男』
  オリバー・サックス著/高見幸郎・金沢泰子訳(晶文社)

  著者のサックス氏は、高名な精神科医であり、映画『レナードの朝』の原作等、既に多くの優れた著作のあるクリニカル・ライターです。この本では、Dr.サックスが診てきた患者達の物語(症例)が二四例紹介されています。  目次には、表題にもなっている「妻を帽子とまちがえた男」を始め、「冗談病」「皮をかぶった犬」「自閉症の芸術家」等、タイトルを眺めただけで襟首をつかまれてしまうものが並びますが、その中で一番惹かれたのが「双子の兄弟」です。

 この双子の兄弟は“知恵遅れの天才”で、二十六歳になっても抜群の記憶力以外、何一つ取り柄がありません。しかし、他の能力が劣っていたからこそ、その代償として逆に高まったと思われる、数に対する能力には目を見はるものがありました。

 彼らは三十桁、三百桁の数字でも易々と記憶し、四万年先(昔)の日付を言われれば瞬間的に何曜日かを答え、百十一本ものマッチ棒の数を瞬時に正確に言い当てます。足し引きも満足にできない彼らには、数字は数えるものではなく「見える」ものらしく、百十一本のマッチ棒を「見た」とき、三十七のかたまりが三つ「見えた」と言います。

 実は、この三十七には「素数である」という確固とした意味があります。「素数」は、彼ら独自の世界を構成し調和を与える特別 な数なのです。彼らは二人で「素数」を言い合う遊びをよくするのですが、二十桁に及ぶ「素数」を交互に言い合う二人の表情は喜びに溢れ、至福の時を過ごしているかに見えます。

 ところが、後に二人は「社会性」をつけるべく引き離されます。そして、ある程度の社会生活は営めるようになりますが、同時に、数に対する天才的で不思議な能力は失われてしまいます。  Dr.サックスは、患者個人の具体的な内面世界をとても重んじ、単純に「社会化」「一般 化」「既成文化へ同化」させることに細心の注意を払います。知恵遅れの人々が持つ「創造的な知性」を理解し、育てようとします。Dr.サックスは言います。患者達の「物語」は、他に類例も比較できるものもない。『原型』といえるものもない、と。

 『原型』でさえない「物語」。意識/無意識という一般化を許さない「物語」。そんな彼らの世界に魅せられ、ほんのわずかの間でも共に生きてみたいと思いますが、安易にそう思うのは凡人の硬直した想像力の限界を示すことに他なりません。


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