『しっぽ雑感』

 

  谷崎潤一郎は『客ぎらい』という随筆の冒頭で、いきなり、自分は猫のしっぽが欲しいと言い出します。
  寺田寅彦は猫のしっぽを無用の長物と書いているが、自分はそれと反対で、ああいう便利なものがあったならば、と思うことがしばしばである、と。

  なぜ猫のしっぽが欲しいかというと、谷崎は訪客の相手をするのが煩わしいので、「はい」とか「うん」とか言う代わりにしっぽの端を二、三回振って済ませたいからなのですが、『猫と庄造と二人のおんな』に見られるのと同様、谷崎の猫に対する観察眼と文章の巧さは一級品で、猫を飼ったことのない人間でもいますぐ自分の尻に猫のしっぽを生やしたくなります。

 谷崎の言うように、声を出すのは面倒だけれども黙っているのもあまり無愛想であるから、ちょっとこんな方法で挨拶して置こう、という猫のしっぽ説に私は全面 的に賛成です。賛成なのですが、いま目の前を、しっぽをふりふり通過してゆく我が家の犬を見ると、猫ではなく犬のしっぽがくっついたなら、とつい比較してみたくなります。

 自慢気に振られている犬のしっぽは猫のものより取り扱いが簡単そうではありますが、やはりどう考えても、犬のしっぽが生えた日には、人々はかなり恥ずかしい思いをすることになります。

 我が家の犬を見る限りですが、しっぽは犬自身の意志とは無関係に、つまり大脳を通 す間もなく、嬉しい感情が兆した瞬間、反射的に“振ってしまっている”と見るのがよさそうです。

 犬が退屈そうにしているときなど、目が合うやいなや“遊ぶ?!”という期待もしくは要求からか、寝そべってはいてもしっぽは根元から大きく動いています。猫のように、うつらうつらしているときに名前を呼ばれれば黙ってしっぽの先端を振ってみせるだけ、などということはあり得ません。犬はどんなに眠くても呼ばれればしっぽを振ってすっ飛んできます。その瞬発力は見事で、身体のスィッチにはきっぱりオンとオフしかないかのごとく、熟睡状態から全力疾走に突入します。そして撫でる前から仰向けにひっくり返り、腹を全面 的に開放します。もちろんその時のしっぽは勢いよくパンパンパンと床に打ちつけられています。ああ、犬よ。

 そこで、犬のしっぽをつけた人間でいっぱいの通勤電車を想像してみます。小ぎれいな身なりのすました男性のしっぽが、あちらこちらでゆさゆさと揺れています。ドアにしっぽが打ちつけられて、パンパンパンという音が不気味に響いてきます。また、何かを誇示するようにピンとしっぽを上げ、狭い空間をさらに狭くして顰蹙をかっているものもあります。女性から生えたしっぽのほとんどは足の間に窮屈に丸めこまれていますが、中には子犬のように落ち着きなく振れ続けているのもあります。

 顔はどんなに無表情であっても、しっぽがすべてを語ってしまっては、しっぽ矯正ギブスでもつけないことには、恥ずかしくておちおち電車にも乗れません。

 ところがつい最近、あることに気づきました。我が家の犬を仰向けにして抱いているとき、しっぽを軽く揺さぶってみると、こやつはなんとも気持ちよさそうな恍惚の表情を見せ、この至福の状態に完全に身体をあずけ、しまいにはうとうとし始めました。こうなると、嬉しい(気持ちよい)からしっぽを振るのか、しっぽを振るからいい気分になるのか定かでなくなります。しっぽが先か、恍惚が先か。しっぽを振ってもらって満足そうにうとうとしている犬の姿を猫が見たら、なんと思うことでしょう。ああ、犬よ。

 よく訊かれるような犬派か猫派かといった二者択一に私はあまり興味がなく、好きなら両方飼えばよいではないかといつも思うのですが、いざ我が尻のしっぽを想像すると、両方生えればよいというわけにもいかないので、しっぽに限って今は猫に軍配をあげます。そして、『客ぎらい』の巧さを痛感するのです。

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