「着せかえ人間 第1号」 森村泰昌 著(小学館)

 

 美術の領域における森村泰昌は、その作品あるいは作者自身についてすでに多くのことが語られ、あるいは故意に語られずにきた。

 だが、85年にゴッホに扮したセルフポートレイト作品を発表して以来、西洋名画の中の登場人物すべてに扮して入り込み、自ら「モリムラ印」と呼ぶその作品群は、常に人々の狭小な認識を逆転・覚醒させるほど衝撃的であり続けた。特に89年からはスキャニングした写真をコンピュータでハイビジョン合成することによって、「ご先祖様」と敬うレンブラントを始め様々な名画への敬意と愛を表しつつも、それら古典を越える現代性を作品にもたらした。現時点で可能な技術を効果的に使用することで、モリムラ・ブランドは古く閉鎖的なジャンルを超越し、表現の可能性をさらに拡大したのである。森村泰昌はものを創る人として、美術作家としてまさに天才である。そして、天才のまわりには常に優秀なスタッフが集まる。

 『着せかえ人間 第1号』は、解説にあるように書き下ろし小説をもとにした写真絵本であるが、ここには天才の無意識がよき理解者であるスタッフとの連動によって見事に具現化された、プロの仕事が凝縮されている。森村泰昌が作品に入り込むときのメイク・衣装・表情(特に視線と手)へのこだわりは、自らの作品に決して妥協を許さない作家の完璧主義によるものであるが、その変身=着せかえ人間ぶりは、作品の素材あるいは作品に至る前の「自由演技」の段階でも、執拗なまでに徹底している。ベビードールにしても中世の兵士にしても紙幣の中の肖像画にしてもマイケル・ジャクソンにしても、これでもかという過剰な変身ぶりがこそが、見る者に無意識を揺さぶるほどの強烈な何かを感じとらせるのである。そして美術作家は、モデルでもあり、自ら鑑賞者でもあることで、変身型セルフポートレイトの完璧さを貫いている。

 だが、森村泰昌の完璧な天才ぶりは美術の領域にとどまってなどいない。恐ろしく文章がうまいのである。本書中の『着せかえ人間第1号の物語』『「着せかえ寺」探訪記』はもちろんのこと、他のエッセイにおいても筆力・明晰な論理構成・視点の客観性はうまい文章の条件を備え、かつ品格と毒を併せ持つ文体の魅力は凡百の作家をはるかに凌ぐ。わたしはこの文章で、筒井康隆の『着想の技術』を読んだときとよく似た興奮を覚えた。

 かつて悪しきジャンル分けに囚われ、森村作品を写真の変種と見なした美術家たち、完全に無視したという写真家たちの二の舞を演じぬよう、文章を扱うプロの作家たちは心せねばならない。森村泰昌が次から次へと小説を発表したらどういうことになるのか、わたしは想像しただけで震えあがった。

 本書は、小説というかたちで森村が文章の領域にまで進出していることを明確に示すものであり、けっして「なんだかよくわからない」「これ小説なの」などといって済ませられるものではない。これは常にわれわれの前を行く天才作家の、絵画であり写 真であり小説でもある、現代の作品なのである。


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