日本画にはまったく関心がなかったのですが、ここにきて初めて、どういうわけか伊藤若冲にはまりました。
きっかけは、何の気なしに見たNHK教育テレビ「新日曜美術館」の若冲特集です。
執拗に描き込まれたどぎついほどに鮮やかな鶏。なにやらなまめかしさの漂う野菜。どこかで目にした記憶はあるのですが、若冲という名前と結びついていませんでした。それが今回、様々なテクニックを試みた実験的な作品や、金・暇・労力のすべてを画に捧げたその人生を知り、すっかり若冲に魅せられてしまいました。
まず、なんといっても、最晩年(八十六歳)で描いた『百犬図』が、犬バカ心をがっしりと掴みます。一言でいうと子犬が群れているだけの画ですが、子犬一匹一匹の表情はおろか、毛の一本一本まで丁寧にとらえたその筆致は、カワイイとかリアルだとかいう言葉以前に心が強く揺さぶられ、見れば見るほど画から目を離すことができなくなります。
若冲の描く生き物は、虎、猿、鶏、蛙、魚、蝶、バッタ、オタマジャクシ、蟻など、種類も大小も様々ですが、味覚芽の一粒一粒、羽毛や鱗の一枚一枚、昆虫の触角の先端がぬかりなく描かれ、画の細部までがまさしく入魂されたチカラを持っています。若冲はそれを生き物の「神気」が見えた状態と言ったようです。
たとえば鶏を見る。ずっと見る。これでもかというほど見て、見尽くすと「神気」が見えてくる。そして、この状態に到達したならば、鶏ばかりでなく、他の動物や草木にもすべて「神気」が見え、生き物は自在に描けるようになる。
一見リアリズムの極みのような生き物も、その仕草や表情をちょっと注意して見れば、決して自然にはありえないポーズや眼差しをしています。蝶の触覚などはくるくるカールです。しかしだからこそ、若冲は生き物の愛らしさの本質をとらえていると言えます。「神気」を見いだした作者と、見いだされたモデルの幸福な関係が、そこにはしっかりと築かれています。
簡単に「神気」が見えるなどとつい言ってしまいますが、それを可能にするだけの余裕、食うに困らない者のゆとりが若冲にはありました。つまり、「神気」が見えてくるまでモデルを見続けられる時間、没頭できる集中力、それを作品に仕立て得る技術と能力、さらに最高の品質で仕上げるためのコスト、物質的にも精神的にも若冲をバックアップする環境などが若冲には揃っていました。若冲は「神気」という観念を作品にすることだけを考えていればよかった。だから、これほどまでに手間暇かけた生き物や、エロティックな野菜が描けたのでしょう。
若冲の画を見ると、若冲という人の生き方や、彼が生きた十八世紀の文化的状況など、とりとめもなく興味が散らばり出てきて、どんどんまとまりがつかなくなっていきそうです。
では最後に。山下氏と赤瀬川氏が日本画対談をするきっかけとなった『名画読本・日本画編』(赤瀬川原平著、光文社カッパブックス)にも、触れないわけにはいきません。
このコンパクトな傑作は、自由に日本画を面白がれる、特に日本画の楽しさにまだ目覚めていない人にはうってつけの素晴らしい本です。若冲は取り上げられていませんが、これを読めば今まで否応なく目にしてきた日本画の、伝統・格調・黴臭さといったイメージが軽やかに払拭され、思わず笑ってしまうような日本画と日本画家の世界がひらけます。遅蒔きながらこの世界の楽しさに気づいて本当によかった。大げさでなくそう思えます。
私がのめりこんでいるのは今のところ若冲だけですが、気持ちはすでに日本美術応援団員となり、ほかの様々な日本画も「古典」の蔵からひっぱり出し、手荒に面白がってやるつもりになっています。
まあ、私はつまるところ、「本当に動物が好き」な人の描くものが好きなだけかもしれませんが。
いやしかし、『京都、オトナの修学旅行』(山下裕二×赤瀬川原平・淡交社)も早く読まねば。