『PICTURESQUE 1992〜1998』 福田美蘭(朝日新聞社)

 ヘンドリック・ファン・フリート作「オラニエ公ウィレムの墓碑のあるデルフト新教会内部」。この作品を「フェルメールとその時代展」に出品するにあたり、オランダのデルフト市立プリンセンホフ美術館が修復したところ、教会内の柱の横におとなしく立っている犬が、オリジナルでは片足を上げて柱に小便をかけていたことがわかった。

 新聞で上記の事実を知ったとき、私の脳裏にまず浮かんだのは美術家福田美蘭氏の「絵画の洗浄」(1994年)です。これは、一七世紀の画家ルーベンスの作品を洗浄していたら、下から『不思議の国のアリス』の絵柄が出てきてしまったという痛快な作品です。氏自らの解説を拝借すると、「本来あり得ない過去と現代の時間の逆転を描いたもの。今日の絵画の保存・修復の技術は進んでいて、科学的な調査によって得られた情報に基づいて下される適切な判断と処理は、美術史研究になくてはならないものである。ここでは、その真摯な精神と相対するような諧謔的な仮説を通 して、私たちが疑うことのない、絵画が依存しているさまざまな制度や枠組みを認識しようと試みた。」ということになります。小便をかける犬の下からさらに101匹ワンちゃんが出てきたら、と想像するだけで愉快です。

 「絵画の洗浄」をはじめて東京都現代美術館で見たとき、笑いと敬意と解放感と羨ましさが一緒になったような、思わず拍手喝采を送りたくなる感動を覚えました。そして、一目で福田美蘭氏の作品に惚れ込み、以後発表される度に拍手を送り続けています。氏の作品はすべて、ある明確な制作理念・姿勢に貫かれていて、それは本書『PICTURESQUE 1992〜1998』のプロローグ「時代を映す鏡でありたい」とエピローグ「ドキュメントとしての作品」において、作品同様の明晰さをもって語られています。何らかの形で作品の制作・発表に関わる者、特に現代の作り手には必読の文章です。福田美蘭氏の自作を語りながらのレクチュア(於東京都現代美術館)を拝聴したときも感じたことですが、その表現は常にシンプルで、明快で、端正です。

 もっとも共感するのは、「主体性を消す」というその制作方法です。福田美蘭氏の作品(あるいはモチーフ)はどれも、ほとんどの人がどこかで見た覚えのあるものです(絵がうますぎることの証です)。しかし、どこかが決定的に違います。それまで自分が何気なく見ていたものが、まったく別 の親しさを持って目に迫ってきます。それは有無を言わさぬほどの迫力です。「自分を出したい」という考え方は今までやられてきたことだと、氏は既に1994年のインタヴューではっきりと答えています。そして、この点が天才の天才たるゆえんなのですが、自分を消そう消そうとした結果 、出来上がってきた作品は福田美蘭そのもの、誰が見ても福田美蘭氏の作品であることがわかります。現代の作り手は、個性だの独自性だのといまだもって無自覚になんとかの一つ覚えで唱えている場合ではありません。

 比較的最近の作品で私が好きなのは、「キューピーマヨネーズ」(1997年:ビニールに入ったマヨネーズの、赤いクロス柄の部分の超拡大画、抽象と具象について考えさせられる)、「ごみ収集袋」(1996年:東京都推奨のごみ袋に印字された個々の文字をコンピュータでデフォルメし、女性の笑顔を作ったもの、十枚一組の版画作品)などです。この作品集にはありませんが、「ポーズの途中に休憩するモデル」(1999年:テラスに座って一息つくモナ・リザの全身像、背景なども限りなく史実に忠実)も笑いながら脱帽します。現在、朝日新聞(土曜夕刊)紙上では、作家のエッセイにつけられた面 白い挿し絵が見られます。愛すべき確信犯である福田美蘭氏の、革新的でまじめないたずら心が私にはたまりません。


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