
「憂愁のノクターン」を聴きながら、雨の日にこの自伝を一気に読みました。本を読むスピードがとても遅いのと、犬も私も長時間じっと座り続ける苦痛に耐えられないのとで、一冊の本を一息に読了することはまずないのですが、久しぶりに五時間も六時間も集中し、感情移入し、たびたび涙も落としそうになりながら堪能しました。
空模様がわかる犬は、雨で散歩に出られないと知り、膝の中でずっとおとなしく丸まっていました。いたずらもしないのは珍しいことですが、これもフジ子氏の音楽のちからかもしれません。
人(動物)の心を捕らえることのできるちからのある作品は、余分な力みが抜けていて、おそらく一見手抜きと見紛うほどシンプルなものです。
この自伝にも、そのようなさらっと書いてる凄さを感じます。
誕生、父との別れ、母から受けたピアノのスパルタ教育、長く平穏ではないドイツでの暮らしを経て、1995年に帰国して大ブレイク。書こうと思えばいくらでも細かく、執拗に、ドラマティックに書ける人生です。
ところが、フジ子・ヘミング氏の簡潔な文章によって辿られる人生では、カラヤンやバーンスタインとの奇跡的な出会いも、聴力を失ったことも、一冊の古本に出会った感動や飼い猫の餌の心配と同等に扱われ、とても静かに語られます。
あとがきには、『長い不遇時代、「ある無名芸術家の自伝」を書こうと何度も考えました。カラヤンやバーンスタインとの夢のような楽しい思い出も書きたいと思いました。』とあります。普通
の自伝なら躊躇いもなく多くのページが割かれる出来事です。しかし、抑制のない苦労話や派手な出来事をあえて書かなかったフジ子・ヘミング氏の恥じらいが、エピソードの選択・描き方のひとつひとつに現れていて、それがこの自伝をすっきりと品の良いものに仕立てています。
特に最後の一文『猫や犬だけに知ってもらいたいことは、うやむやな結果になっているはずですから、どうぞわかってください。』は、品のない自己顕示欲からは決して出てこない言葉です。
ポン、と出した音に自分が全部出てしまう怖さを思い、フジ子・ヘミング氏は今でも演奏の当日はドキドキすると言います。音には作った人のふだんの自分や人間性がすべて出る。それを常に肝に銘じて、それこそ一音一音大切にする誠実さ、年齢を重ねるごとにその思いを強くする素直さが、きちんと聴く人に伝わり、たくさんの心を捕らえてゆくのでしょう。
巻末の絵日記も氏の人柄がよく現れたもので、とてもかわいらしく独自のセンスを味わえます。勤勉に楽しくピアノの練習をしたことや、猫や犬や鳥のことを絶えず気に掛けている文章を読むと、それだけでフジ子・ヘミング氏の作り出すものなら、音でも絵でも文章でも信頼して楽しむことができると思い、嬉しくなります。
音楽はいまどきの流行りのものばかりをいつも聴いていますが、この本を読み終える頃にはすっかりフジ子・ヘミング氏のピアノが部屋に馴染んでしまい、この音がないとなんだか落ち着かなくなってしまいました。魂のピアニストと呼ばれる所以かもしれません。
この本を読んだ次の日、犬と散歩に出たとき、フジ子・ヘミング氏の他のCDも迷わず購入しました。CDショップの店内で、バッグに押し込まれていた犬は、おとなしく買い物に付き合ってくれました。