風間賢二=とにかく買うそれが基本、である。
それが数ページの解説・あとがきだけであっても、風間氏が賛辞を寄せているだけでわたしは飛びつく。少ないページ数の中で、圧倒的情報量に基づく的確な文学史的位置づけを行い、好悪をはっきりさせつつも記述は客観性を保ち、この本が面白くないわけがない! とまで思わせる。すごい。風間賢二氏の推す本ならば、わたしの従来の興味から多少ずれていそうな内容であっても、いやずれているならなおさら、何か新しい面白さにきっと出会えるという予感とともに、条件反射でその本をつかんでいる。c著書、訳書、編訳書、新聞、雑誌と風間氏の書評はあちこちで読めるが、あえてどれか一冊となれば、やはり最初に嬉しさゆえに震えた『ダンスする文学』ということになる。
まず、文学に対するスタンスが最高である。自分は文学青年なんかではさらさらなく、大学生になるまで読書とは無縁な人間だったと清々しく言い放ち、文学=遊びと言い切って面白い大ボラ小説をあさり、生真面目なリアリズムばかりが評価される日本ではノンセンスやユーモア小説が根づかないと心底嘆く。
もうこれだけで信用してしまえる。常日頃、小説は現実をそのまま映し出すものなどではないと強く思い、男女のちまちまとした心理の綾にはまったく関心がなく、読む者を意図して教授したり癒したりする義理や義務や必要を微塵も感じることのできないわたしにとって、このような立場にたつ書評が大きな支えになったことは言うまでもない。
わたしの読書傾向はかなり偏っていて、大概の書評からは自分の評価との違いを思い知らされるばかりである。もしかしたら自分には本の凄さや面白さや真価がわからず、文学的センスに欠け、結局どうあがいても大した作品は書けないのではないかと思ったりする。だが本書はそんな無用の呪縛から解放し、いまのわたしの関心を深く広く拡げ、さらにそれを作品に結びつけるにはどうしたらよいか、系統立った本の選び方までわからせてくれた。
風間氏の書評には、ポストモダン、マジックリアリズム、メタフィクション、スリップストリーム、アヴァン・ポップ等の語が頻出するが、これは頭でっかちで排他的な最先端文学マニアが言葉の端々に出して人を煙に巻き悦に入る類のものとは当然異なる。氏はそういった語をあえて出し、わかりやすく説明した上で、そんな語にふりまわされることなく、小説に精通したプロのペテン師による、面白変なホラ話を楽しめばいいと言っているのである。しかり。そのおかげでわたしは、コルタサル、ディーノ・ブッツァーティ、スティーブン・ミルハウザーといった大好きな作家の大ボラ話を、いまのわたしが一番楽しいと思える読み方で堪能することができた。
わたしの敬愛してやまぬ作家が次々と亡くなったり、休筆・断筆してゆく。従ってその小説はおろか読書ノートの類も読めなくなった。そんな折り、これから新しい楽しみを見つける上で、他にはない示唆を与え続ける書評はありがたく、読む気書く気も起きてくる。