『安曇野の白い庭』    丸山健二著 新潮社

 

 丸山健二氏の文章は小説であれ、エッセイであれ、いつも極上のユーモアが根底に流れています。それをユーモアと受け取らない読者は多いかもしれませんが、現代の日本で、子どもにはわからない、そしておそらく小説でしか味わえない、この種のユーモアある文章が書ける作家は、氏の他にほとんど見あたりません。私は僭越にも自分の中で“丸健”と呼んでいるのですが、このエッセイでも丸健節は健在で嬉しくなります。丸健節にのって氏の文章を楽しめば、脳髄や精神がよい運動をした後の、心地よい疲れをともなう爽快感を味わうことができます。肉体に運動が必要なように、脳にも適切な運動をさせねばなりません。眉間に皺を寄せ、神経を苛立たせることが思考の訓練だと思っている方には、丸健節でシェイプアップしてみることをおすすめします。

 丸山健二氏が全身全霊を傾けてきたものは、小説は言わずもがな(と言ってるそばから庭ほど入れこんだものはないと書いたりして、そういうところがよいのですが)として、バイク、釣り、大型犬ときて、庭に至りました。

 庭といっても、ちまちまとした流行りのガーデニングもどきではなく、三百五十坪(家の建て直しをするまでは四百五十坪だと思っていた)の土地に、小説家が住む家にふさわしい小説家のための庭を、肉体と脳髄を酷使して一から作り上げるのです。植樹から石運び、消毒、剪定と、何から何まで独学・独力で行います。己の美学にかなう庭づくりへの、尋常でないはまりようは、氏の文章同様、真剣で正直であるがゆえに人を惹きつけ、笑わせる(これは最大級の賛辞です)のです。

 丸山健二氏は家の建て直しの際、解体されてゆく我が家を爽快感を持って眺めます。屋根のトタン板がスパゲッティー同様くるくると巻き取られる手際に感動し、氏は思います。憧れてやまない仕事がひとつ増えた。それは、漁師、花火師とつづいて、今度はこの解体屋だ、と。唐突でわけがわからいながらも、思わず笑ってしまいます。さらに、共感もしてしまうのです。そういう迫力と、誤解を恐れずに言うと可愛らしさが文章にあるのです。そして、このテンションは最後まで決して下がりません。いや下がるどころかむしろ上がっていくからこそ、ラストの一文まで読む者を逃さないのです。

 凄い小説を創り、凄い庭を造ることに後半生を賭けるという熱い思いを抱くラストに至り、個人的にほっとしたことがあります。それは氏がまた犬を飼おうと決意したことです。すでに、床暖房、消臭装置、水洗トイレ、運動場付きの犬小屋が造られ、犬の名前も“ボタン”と決まっているようです。

 我が家の犬は、氏が以前飼っていたチャウチャウ犬の“ドングリ”から断りもなく頂いています。それは、これも最高に面 白いエッセイ『されど孤にあらず』(文藝春秋)中の「ドングリの冗談ではない日々」「大型犬のための住宅」がひどく気に入ったからです。たとえば、氏は黒いチャウチャウばかりを飼う理由として次のように言います。「クリーム色や茶色のものは見てくれはたしかにいいのだが、やはり犬にしか見えず、犬以上の何かに見えることがないからだ。」また、犬舎で飼う犬の不幸を思って落ち込んだりもします。「飼い主の愚かさで、犬以上の存在にはなれず、そのために私たちはただ犬を飼ったという以上の感動を得られなかったのだ。……何かの間違いで本がたくさん売れたら、犬といっしょに住める家を建てて、大型犬を飼おう」  丸山健二氏の犬バカぶりが存分に発揮された丸健節全開のエッセイを、私が心より待ち望んでいることは言うまでもありません。


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