ぴょんぴょん丸を乗せたワニは、久しぶりに生き物の体温を背中に感じていた。純毛の暖かみは味わい深かった。ぴょんぴょん丸は少しばかり重かったが、まったく遠慮のない体重のかけ具合がかえって心地よかった。
ワニは満開の桜の下、思いがけず、ひとりではない夜の散歩を楽しんだ。夜行性のワニは溌剌と池を巡った。
雨はいつの間にか上がっていた。
次の日の朝早く、ぴょんぴょん丸を乗せたワニは、小さな一軒家の庭先にいた。昨夜、遅くまで池を散歩した後、ぴょんぴょん丸の案内でたどり着いたのだった。2匹は重なり合ったまま、ピンクの花びらをからだにくっつけ、ほおずきの草の陰で眠り込んでいた。
早朝の日射しが、一週間ぶりの快晴を告げていた。
「やだ、門開けっ放しじゃない……なに? ワニ……?!」
ワニは女の声で目が覚めたが、そのまま目を開けずにじっとしていた。目を開けたら大騒ぎされそうな気配を感じた。背中のぴょんぴょん丸はゆっくり大きな呼吸をしていて、まだ深い眠りの中にいるようだった。
「ちい、大きい声出しちゃだめよ」
やって来た女は胸元にささやくように言いながら、足音を忍ばせて玄関に急いだ。ワニは薄目を開け、敷石を慎重に踏んで行く女を目で追った。ワニ皮模様の尖った靴を履いている。
ワニ皮模様。本物の皮ではなく安っぽい型押しだったが、それでもワニは心を乱された。
ワニの母親はワニ皮のバッグにされた。
直接目にしたわけではなく人づてに知ったのだが、母は顔の部分をそのまま残し口にバックルを付けたショルダーバッグになったらしい。
ワニの母親もペットとして飼われていた。爬虫類好きの老人の家で快適に暮らしていたのだが、孫が誕生し遊びに来るようになるとどうも雲行きが妖しくなった。と、思う間もなく、赤ん坊の母親が我が子の身を案じ、こっそりワニのエサに殺鼠剤を含ませた。老人は娘の仕業だと知りつつも、わからぬ振りをした。情けなさ過ぎて責め立てることもできなかった。
ワニをとても可愛がっていた老人は心を痛め、なるべくワニの原型をとどめたバッグを職人に作ってもらい、手元に置くことにした。老人は出かけるときはいつもそのバッグを肩に掛け、家にいるときは柱時計の横にぶら下げておいた。妻に先立たれたばかりの老人は、ことあるごとにショルダーバッグに話しかけるようになった。
ワニはその話を聞いてから、ワニ皮製品を見ると母親を思いだした。ワニ皮のバッグを見かけると、危険を省みずつい近くに寄ったりした。池に棲むようになってからは、通りすぎる人々のバッグをいつも気にかけるようになった。
たまにワニ皮もどきを見かけることはあっても、本物のワニ皮は通らなかった。
門を入ってきたワニ皮もどきが玄関のドアをせわしなく叩く音で、ぴょんぴょん丸がびくりと動いた。
「おかあさん、ちょっと早く、開けて開けて」
「あー、あー、ママー」
女の腕に抱かれた女児が、ワニとぴょんぴょん丸を指さしながら大きな声を出した。
「こらっ、ちい、だめって言ったでしょ。おかあさん、早く開けてったら」
女はドアの取っ手をガチャガチャいわせた。
「なあに、朝っぱらから。あれ、ちいちゃんも」
「おかあさんワニ、ねえワニ、ワニワニワニ!」
「ワニ?」
「あそこ、草の陰」
「どこ? え? ぴょんぴょん丸? ぴょんぴょん丸ちゃん! もうやだ、さんざん心配させて、ぴょんぴょん丸ったら。おとーさん、ぴょんぴょん丸が無事だったわよ。おとーさんっ、早く来て。ああ、でもよかったあ、ちゃんと帰って来たのね。ぴょんぴょん丸、ぴょんぴょん丸、ぴょんぴょん丸ちゃん」
ワニはその声に聞き覚えがあった。昨夜の公園で、一番さわがしくせかせかと喋っていたおばさんだ。桜の花びらを乗せるときも、ワニは背中をちょっと引っ掻かれた。
おばさんは訪ねてきた子連れの女を押し退け、ワニたちの方に走ってきた。サンダルが敷石に引っかかって花壇に飛び、ゾウのような素足が目の前に迫った。ぴょんぴょん丸がワニの背中から抱き上げられた。
「ぴょんぴょん丸、よかったねえ。いいこ、ほんとにいいこ。もう、ほんとうに、どうしようかと思ったわ。ぴょんぴょんちゃん、あなたがいなくなったら、もうどうしたらいいか……」
ふと、ワニは振り返ったおばさんと目が合った。
「ワニ? ピンクのワニちゃん? そうだわ、昨夜の桜の花びらの御利益だわ。ありがとうワニちゃん。ほんとにどうもありがとう。ぴょんぴょん丸の命の恩人、いえ、恩ワニね」
おばさんは一人でしゃべって笑い声を上げ、ワニにうなずいてから、玄関に戻ろうとしたが、思いついたようにまたワニの方に振り向いた。
「ワニ、ワニちゃんもおいで。ほら、おいで」
おばさんとぴょんぴょん丸が、同じクリクリとした目でワニを見ていた。
「あ、通じたわよ、ぴょんぴょん丸ちゃん。ワニ、瞬きしたもの、いま」
来い! ワニ!
のそり。
next
back
|