| のそり。 ピンクのワニは動き出した。 お。 何人かが小さく声をあげた。 誰も追っては来なかったが、ワニはすべての眼差しが自分に向けられているのを感じた。タロウが、大きく一回また吠えた。首輪に付いた鈴がしばらくチャリチャリ鳴っていた。 ピンクのワニは数メートルほど進むと、尻尾をおもむろにぶるんぶるんと振り、からだに付けられた花びらを払い落とした。湿った花びらはうまく全部は落ちなかったが、その効果はじゅうぶんだった。 あ……。 惜しむような責めるような声が、後ろで聞こえた。 ワニは大きな池に向かった。あの池を一周すれば、改めてきれいなピンク色になることができる。 池の周囲に巡らされた板張りの散歩コースに、ワニは無事たどり着いた。水辺に棲むものや、木々の触れ合う音の他に、危険を感じるような物音は聞こえなかった。人や大きな動物の気配もなかった。ときどき遠くで、水のはねる音がした。 ワニは板張りの散歩道の真ん中を歩いた。初めて踏む濡れた板の感触は滑らかだった。腹や尻尾をわざと板に擦りつけたり、四肢をおもいきり伸ばしたりしてみた。 池を半周ほどすると、行く手からコツコツコツコツッと、軽快に板の上を歩く音が向かってきた。小さな硬い物が板に当たるその音は、無神経な勢いでどんどん大きくなった。 木々に覆われた散歩道は池ののりしろのように狭く、脇に寄ることも後戻りもできなかった。池に飛び込むことはできたが、桜の花びらが洗い流される姿が浮かんでためらった。 ワニはかたまった。 すでにコツコツコツの正体が目の前に迫っていた。 ぴょんぴょん丸だった。 ぴょんぴょん丸はワニの正面で一瞬止まり、なんの躊躇いもなくワニの鼻先を舐めると、長い顔を踏切板にしてひょいと背中に飛び乗った。 行け! ワニ! ぴょんぴょん丸はワニの頭に前足をかけて突っ張り、前方を見据えた。 ワニはぴょんぴょん丸を乗せたまま歩き出し、ぴょんぴょん丸はワニの背中で満足げに尻尾を立てた。ワニもなんだか気持ちが大きくなった。こそこそと歩き回っているのが、なんだかばかばかしく思えてきた。 ワニは四つ足を踏ん張り、すくっと胴体を持ち上げた。ワニは大方の人間が想像するより速く進むことができる。 タッタッタッタ。板を踏むワニの軽やかな足音が響いた。 いいぞ! ワニ! ワニはスピードを上げた。 振り落とされまいとぴょんぴょん丸の爪に力が入り、ワニは忘れていた感触を思い出した。背中に何かが乗っていると、とても安心するのだった。 ワニはものごころがつくまで、他のたくさんのワニたちと重なり合って生活してきた。いつも自分の背中や顔の上に、他のワニたちの尻尾や足が何十本も押しつけられていた。 マンション暮らしの時、不安をぬぐえなかったのは、おそらくこの重みがなかったからだ。ワニは今にしてそう思った。 ワニは小さな水槽でひとりきりになると、常にすきま風にさらされているように感じた。水槽の隅にはりついたり、砂利の下に潜りこんだりしてみたが、何をしても体がスースーとして落ち着かなかった。 女もワニの様子からなんとなく察したのか、マントやベストをワニに巻き付けたり、刷毛で背中にオイルやクリームを塗ったりした。ワニも初めは新鮮な感じがして少し気は紛れたが、だからどうということもなかった。おめかしごっこには、女もワニもすぐ飽きてしまった。 だがこのときの、体に何かをまとう感触が、ワニの桜好きにつながったのかもしれない。
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