ワニは人や動物をいたずらに噛みはしなかった。
 咬んじゃダメ。いい? ぜったいに咬んじゃダメなの。
 マンションの水槽にいたときに、それだけは厳しく言われた。
 咬んじゃダメ。

 舌足らずのその女は、強い香水のにおいをいつも放ち、なぜか蒲鉾をワニのご褒美と決め、咬んじゃダメ咬んじゃダメと言い続けた。
 ワニは一度だけ、故意にではないが人の指を傷つけたことがある。女の部屋に遊びに来ていた若い男の薬指だった。恐る恐る出された男の手に、ごつごつとした銀の指輪があった。ワニはちょっと指輪の歯触りを確かめようとしただけなのだが、咬まれると思った男が慌てて手を引いたために、指の腹がワニの尖った歯に引っかかってしまった。たいした傷ではなかったが、男は指から流れる自分の血に大騒ぎをし、目に涙まで浮かべて女にワニを捨てるか男を捨てるかを迫った。
 女は迷わず男を捨てたが、ほどなくワニも自ら女の部屋を出ることにした。隣の部屋の住人がワニの存在に気づいたような気がしたからだ。女が出かけると必ず隣のベランダで音がして、仕切り板の影から女の部屋を覗き込もうとする人の頭がちらちらした。隣の部屋の中年女は玄関先で始終お喋りをしていた。自分の子どもがマンションの廊下で騒いでも叱らず、子どもよりも大きな声をあげて笑ったりした。
 隣人の覗きの他にも、ワニには部屋を出る理由があった。次々に女の部屋を訪れる男たちはみな、怒ったり甘えた声を出したり感情がめまぐるしく変わり、同じ部屋にいるワニの気持ちをとても落ち着かなくさせるのだった。女の機嫌が悪いとワニに八つ当たりする男もいて、ワニ類のなかでも特に温厚なワニはその度に下痢や嘔吐を繰り返した。
 
  男が訪ねて来ないときには快適なその部屋に、ワニは少しだけ未練があった。だが、思い切って部屋を出でしまうと女の顔はすぐに忘れた。いや、初めから顔など覚えていなかった気がする。それでも、女が振りかけていた香水のにおいと、咬んじゃダメという言いつけは、しっかりとワニのからだにしみついた。
 咬んじゃダメ。

          

 ワニには特に咬んでみたいものもなかった。
 隠れる間もなく、人々がワニを取り囲んでいた。

「ねえ、ピンクのワニじゃない?」
「ほんと」
「これが、そう……」
「なに? なんなの?」
「ぴょんぴょん丸、近寄っちゃだめよ」
「街道の向こうの池にいるって話だったけど」
「迷っちゃったんじゃない?」
「こんなところまで」
「ほんとにピンク色ね。こらっ、ぴょんぴょん丸やめなさい」
「小さいな、こんなに小さくてワニなのか。1.5メートルあるかないか……」
「これくらいのなら、いるみたいですよ」
「コモドオオトカゲよりぜんぜんちっちゃい」
「ウチのイグアナちゃんくらいかしら」
「ほんと、イグちゃんの顔が長ければ、これくらいかも」
「目がクリクリしてる。けっこうカワイイかも」
「ワニ、ぜんぜん動かないけど」
「でも、睨んでる」
「ただ目開けてるだけだろ」
「どうします?」
「どうって、拝むでしょう、ふつう」
「そうね、縁起物だし」
「なに? そうなの? ぴょんぴょん丸こっち来てなさい」
「ピンクのワニに遭遇したペットは長生きするらしいです。桜の花びらを添えるといいって、ネットで見ましたけど」
「ほんとに?」
「じゃあ、せっかくだから」
「ちょっと、ねえ、怖くないの?」
「だいじょうぶらしいですよ。ちょっと咬まれればなおいいって話もありますし」
「うそ……横からほら、随分尖った歯が出てるけど」
「臆病でおとなしいワニもいるらしいですよ」
「そうなの?」
「ぴょんぴょん丸よかったわねえ、長生きしようね。この子もそろそろおじいさんだものね。もう、動物って寿命が短くってやあよね。えっと、花びら花びら、桜じゃないとだめなの?」
「ええ、おそらく……」

 ワニは石になって、背中や尻尾に花びらが乗せられてゆくのに耐えた。人の手によってピンク色に染まることほど、気分の悪いものはない。それでもワニは、最後の一人が恐る恐る花びらを置き、拝み終えるのを待った。それくらいの分別はあった。

            

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