梅の花の頃、亀戸天神にお参りしたら、池の隅に亀が重なり合っていた。通りすがりの爺さんが言った。亀たちは紅梅を愛でますよ。
 
 その池には桜色をしたワニがいる、という話である。
 ワニは桜の花が咲く頃、人目を忍んで池のほとりに這い上がってくる。
 ソメイヨシノが満開となり、池の周囲はほろ酔いかげんのピンク色に煙る。人々は頭上の花房に誘われ、ピンク色の妖気の中をどこへともなく導かれる。舞い散る花びらの下、ワニも池を歩く。
 ワニは短い足で胴と尾をしっかりと支え、ゆっくりゆっくり池のほとりを巡る。細長い瓢箪型の池を一周するころには、ワニの湿った顔や背中に花びらが貼りつき、くすんだ岩石のような体は薄いピンク色に染まる。

 偶然その姿を見かけた人が、ピンクのワニの話をする。ネットで書き込みをする。ウワサが広まる。
 池には小さなピンクのワニがいる。
 ピンクのワニを見かけた人は幸せになれる。
 ピンクのワニに触ると痛いところが治る。
 ピンクのワニに指を咬まれると金が貯まる。
 ワニの鱗を鬼門に貼ると厄よけになる。
 などなど。

 ワニは風の日と、雨の日を特に好んだ。花見に浮かれる人々が少なければ、いちいち騒がれたり突かれたりされずに済む。風雨のおかげで桜の花びらはたくさん散る。花吹雪に吹かれ、ワニは静かに少しずつピンク色になるのが好きだった。
 今年も桜の蕾がほころび始めると、ワニは天気が悪くなることを願った。一度でいいから、ゆっくりと心ゆくまで満開の花の下を歩いてみたい。
 夜になるとワニは、水際の岩とまこもの陰から鼻の先を突き出し、じっとあたりの様子を窺った。桜の咲き具合は鼻で探ることができた。ああ、一度でいいから、ゆっくりと満開の桜の花の下を……。

 ワニの強い願いが通じたのか、今年の桜の季節は、細かい雨がわりとよく降った。
 花見を待っていた人々は雨に打たれる桜を惜しみ、ワニは日が暮れると嬉々として桜の下を這い回った。
 十分な水を含んだ敷石の隙間から、鮮やかな緑色の苔が盛り上がり、深みのある匂いを放つ。カエルやミミズが干からびることなく、あちこちで這いまわる。

           

 霧雨がわずかに舞う夜、ひとけのないのをいいことに、ワニは池のほとりから少しだけ足を伸ばした。魔が差したとしか思えない。ほんの一瞬、動物としての警戒心が緩んだ。
 雨でしっとり落ち着いた夜の桜に誘われるまま、ワニは棲みかである瓢箪型の池から離れ、街道を横切り、公園の中に入り込んだ。
 その公園には、大きな池と、野球場、子供用アスレチック広場、ちょっとした休憩所や売店などがあった。
 晴れた日ならば、池を巡る遊歩道や広場は花見の人や酔っぱらいで埋まり、猫一匹すり抜けられないほどになる。それほどこの公園内の桜は見事だった。
 ワニは濡れた落ち葉や土の感触を長い腹や尾でも確かめながら、大きな池のある公園の奥へと進んだ。苔と水のにおいにひかれ、ワニの足は池のほとりに向いていた。
管理事務所の角に立つ常夜灯が淡く光り、水を含んだ薄桃の花びらが空に滲んでいた。

 人の気配を感じて、ワニは慌てて動きを止めた。夜桜に浮かれて気が緩み、いつのまにか「ふれあい広場」の片隅に足を踏み入れていた。
 ワニはじっと様子を窺った。
「このところ雨ばっかりで、じゅうぶんにお散歩できないわね、かわいそうに……」
 開けた空間に、人と、わりと大きな動物が集まっていた。人は五、六人。動物も、たぶん犬かなにかだろうが、人と同じくらいの数がいるようだった。
 ワニはその場でかたまった。

 鈴の音がして、甲高い声の犬がワニの方向に、大きく一回吠えた。
「なに? タロちゃん、なんかいたの?」
 ワニはさらにかたまった。
 犬が鼻をフンフンいわせてワニの方に素早く動き出した。
「タロウ、なんなの? 食べちゃだめよっ」
 鈴の音とともに、鼻で地面を掃くように近づいてきた犬は、一直線にワニを嗅ぎ当てた。犬の濡れた鼻が、ワニの口のあたりを探った。フッフッという鼻息がくすぐったく、耳元でチャリチャリと鈴が鳴り、ワニはつい顔をそむけた。
 とっさに犬は飛び退き、けたたましく吠え立てた。
「タロウっ」

           

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