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もちろんそれは写真だけから感じるもので、実物のドングリは、ときにうんざりするほど元気いっぱいだった。写
真の寂しさは、撮った人間の気持ちの状態が投影されているのかもしれなかった。そして、このときに彼は妻の変化に気づくべきだった。彼がせいぜい思ったのは、十年近くろくに運転をしていなかった妻が、一時間近くかかる河川敷によく車で行く気になり、無事に帰ってきたものだ、まあ、思い立つとじっとしていられない性分ではあるが、彼女はいつもひとりで勝手に決めて行動してしまう、ということぐらいだった。彼はドングリにかかりきりになりすぎていた。
妻の横で眠っているドングリがキュ、キュキュと、突然みょうな声を出した。引きつったような、普段出したこともない大きな声で驚いたが、すぐに寝言であることがわかった。犬だって夢をみる。彼がとても知りたくて、叶わぬ
もののひとつは、ドングリの夢だった。ドングリは、初めての場所に行くとか初めての人に会うとか、普段とは違うことがあった日に、よく夢をみる。内弁慶で外では猫をかぶっているせいか、肉体よりも精神的な疲れのほうが堪えるらしく、外で気取っていればいるほど、家に戻ったときにほっとしているのがよくわかる。
河川敷で走り回ってきたドングリはどんな夢をみているのだろう。初めてかいだ車の中の匂いや草むらの匂いの中で、びっくりしたり、楽しかったり、怖かったりしたことの残滓は、どんな夢となっているのか。もしかしたら、実際の出来事とは無関係に、飼い主の手に噛みついて肉をちぎっている夢かもしれない。そんな夢はみないとは言い切れない。だが、犬の気持ちも事情も本当にはわからないからこそ、興味は尽きない。わかりたいけれどわからないままのものがあることは、けっして悪くないと彼は思う。そういうものをいくつか持って生きているほうが、かえって豊かなのではないか。自分にはわからないもの、できないものを自覚することによって、いつまでも飽きることなく、楽しくやってゆけることもある。

ドングリがまたキュキュとないた。今度はその声で妻が起きた。眠いときの妻はいつも恐ろしく機嫌が悪いのだが、この日の夜はめずらしくごめんと言って、彼の向かい側によろよろと腰掛けた。鼻血を止めるために詰めた脱脂綿の端が赤黒く乾いていた。妻は鼻に脱脂綿が入っていることも忘れているようだった。 眠くて動けないドングリに柔らかい笑顔を向けて、妻は子供の頃に飼っていた犬のことを少しだけ話した。
妻が犬を飼ったことがあるのを、彼はこのとき初めて知った。 小学校の高学年の頃、マルチーズのオスを買ってもらったという。七十年代のペットブームの頃で、彼女も友達の家で白いぬ
いぐるみのようなマルチーズを見て、どうしも欲しくなった。
ところが、彼女には飼っていた犬について、詳しい記憶がほとんどなかった。犬の名前と、それがある短い期間、家にいたということぐらいしか覚えていないのだ。餌は何を与えたか、トイレのしつけはどうしたか、散歩は連れていったのか、どんな遊びが好きだったか、何を怖がったか、留守番をさせたときはどうだったのか等、その犬にとって大切なことがすっぽり抜け落ちている。今ほどペットに関する情報がなく、飼う人もそれほど神経質ではなかった時代にしても、これではあまりにひどいではないか。彼が妻にそう言うと、彼女もそう思うと素直に認めた。結局、彼女はその犬とかけがえのない関係をきずくこともなく、たった数年で人に譲ってしまった。罪悪感のかけらもなかった。ドングリが来るまで、そのマルチーズを思い出すこともほとんどなかった。だが、ドングリとの関係ができてくるにつれて、押しやられていたマルチーズへの罪悪感も顔を出すのだった。
こんなに自分が犬好きだとは思わなかった、ドングリが来てほんとによかった、と妻は言った。実は、ドングリが来て三日ほど経った時、彼は仔犬を飼うことのあまりの大変さに音を上げ、妻に隠れて知り合いの家に電話をかけ、ドングリの貰い手を探そうとしたのだ。だが運よく豆腐屋から帰った妻は、電話中の彼の話を聞きつけ、とっさに手に持っていた豆腐を投げつけた。彼女は怒りに震え、涙を流し、お願いだからもう少し頑張ってみろ、とめずらしく興奮した声を出した。
彼女の頭には、昔いたマルチーズの姿が大きく浮かび上がり、二度と同じ過ちを繰り返したくないと思ったのだろう。もしドングリを手放したら、いつまでも彼女の犬の記憶はあの愛されなかったマルチーズのところで留まってしまう。彼女はそれまでにも、いろいろ小さな生き物を飼っては死なせていた。謝って踏んづけてしまったインコ、干からびさせたミドリガメ、炬燵の中で窒息していたヒヨコ、交通
事故にあったウサギ。すべて彼女の不注意から起こった死だった。それらへの罪悪感が、彼の受話器を握った姿をきっかけに一挙に押し寄せたのだろう。
わたしが飼うとどういうわけか死んでしまう。きっと動物に対する愛情に、どうしようもない欠陥があるに違いない、そんなことを彼女は静かに話した。鼻に詰めた脱脂綿を取ろうとしてまた血が滲み出した。彼女はまたドングリを優しい目で見て、言った。ドングリが来てよかった。
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