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ドングリはひとりで遊ぶということをしない。留守番のあいだ、大量に持っているおもちゃはひとつも少しも動かしていない。ただつまらなそうに寝ている。一匹になったドングリにとって、おもちゃそのものは全く意味のない物体に過ぎない。物体は人間とそれで遊ぶことによって、初めておもちゃとなる。一人遊びをしているときでも、人間に見られていることが前提となっている。ドングリの行動はすべて人間との関係から起こる。何かしたら、必ず人になんだかんだ言ってもらいたいのである。
ドングリは一日三回、外に出る。まず、早朝に妻との快便。次は仕事がひと段落した後の彼と、午後の本格的な散歩。晩飯後には近所をぶらぶら夜の見回り。夜は妻か彼か手が空いている方が連れてゆく。
午後の散歩は一時間半から二時間、たっぷり歩く。商店街を闊歩し、犬を連れていなければ入って行けないような路地を抜け、池のほとりに出る。池をめぐりながら鳩にちょっかいをだし、烏にちょっかいを出され、夕方になる頃、豆腐屋へ妻を迎えにいって一緒に家に戻る。ドングリは店の豆腐を必ずもらって帰り、夕飯のときにみんなで食べるのを楽しみにしている。犬用のおやつより豆腐が好きだ。
ドングリが初めて外に出たときは、公園のベンチの下で腰が抜けたように震えていた。においを確かめるのもそこそこに、鼻を砂だらけにして訴えるように彼を見つめた。いまその公園のベンチを見ると、ドングリがもぐり込むにはちょっと狭い。
ドングリは少しずつ外の世界に慣れていった。静かな道では軽快に小走りし、二、三週間で外で用を足す快感も覚えた。だが、楽しそうに歩いている感じではなかった。どことなくびくびくしていて、ビニール袋が風で舞ったぐらいで驚いて逃げ回り、数メートル先を猫が横切っただけでUターンしようとした。飼い主がびくついているからじゃないの、妻は笑いながらそう言った。たしかに犬の散歩など、彼にとっては生まれて初めてのことで、大人の男としては情けないほどリードの操作もぎこちない。
ドングリが外で走り回る楽しさを知ったのは、妻が車で河川敷に連れてゆき、首輪をはずしてやったときからだ。肌寒い春の日曜日で、彼女は豆腐屋のライドバンを借りてドングリを連れだした。彼は原稿を書くためにどうしても見なければならない展覧会に出かけていた。普段なら時間をずらしてでも散歩だけは行くのだが、その日は少しばかり怠け心がはたらき、休日の妻に任せることにした。いつもそうなのだが、面
白いことや大切なことは彼がいないときに起こり、妻ばかりいい思いをする。
草むらに放たれたドングリは一瞬なにが起こったのか戸惑った。だが、すぐに土手をかけ上がり、草の中へ飛び込んで行った。他の犬もおらず、人もまばらで、駆け回り放題だった。短足のドングリは、人のふくらはぎほどの高さの草でも、ウサギのようにぴょんぴょん飛び越える。足は短くてもバネは強く、おもしろいようにからだは弾み、顔もだらしなくほころぶ。ドングリは外で遊ぶ楽しさをはじめて全身で味わった。
それでもドングリはひとりで遠くまで行ってしまうことはなかった。我を忘れて興奮しているようでも、きちんと飼い主との距離をはかり、目の隅にとらえ、おいでと呼ぶと弾丸のように戻ってきた。
妻がそのときに撮った写真がある。急に思い立って出掛けたわりには、彼女は用意がよかった。また、機械に疎くカメラにもそれほど興味がないはずなのに、デジカメに記録されたドングリの姿はよく撮れていた。けっしてうまくはないが、ドングリへの彼女の気持ちが伝わってくるいい写
真だった。ふだんドングリの世話もあまりせず、一緒にいる時間も彼よりずっと少ない妻だが、ドングリを大切にする気持ちは彼よりも強いのではないのか。彼はその写
真に少々やきもちをやき、かなわないなと思った。
河川敷から帰った妻とドングリは、慣れないことをした疲れのせいで夕飯も食べず、彼を食卓に残してさっさと寝てしまった。居間のソファでふたりはぺったりくっついて眠っている。妻は十年ぶりの運転で、相当緊張したのだろう。家に着くなり鼻血を出し、ソファに横になると、数分もたたぬ
うちに寝息をたてた。ドングリは初めての遠出で、帰ってもしばらくは興奮して彼にじゃれついてきたが、妻が横になると彼女を顔をひと舐めして自分も寝そべった。そして、間もなく仰向けになり大股を拡げて白目になった。眠くて眠くて仕方ないときの恰好だ。
彼はテーブルに置いてあったデジカメを手に取り、冷や奴とビールで一息つきながら、妻の撮ってきたドングリの画面
を一枚ずつ送っていった。
ひとつ気にかかることがあった。その百枚近くのドングリの写真は、どれも楽しいものなのに、なんともいえぬ
寂しさが漂っていた。草むらの長い道を疾走するドングリ。のびのびと野糞をするドングリ。前足をめいっぱいつっぱって土手をかけおりるドングリ。川辺をおそるおそる覗きこむドングリ。走り過ぎて舌を長く伸ばしたドングリ。その姿も表情もバカみたいに喜んでいるのに、一枚の写
真として眺めると、まだ仔犬のドングリが晩年期の静けさと思い出の中で、ひとり戯れているような感じだった。
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