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そして、十日も経った頃には、仔犬は彼の生活の中にしっかり喰い込んでいた。彼は机につく間もないほど仔犬に振り回され、座ると同時に猛烈な睡魔に襲われるほどくたくたになりながらも、犬なしの生活はもはや考えられなくなっていた。気がつくと仔犬の瞳はかならず彼を見ていた。みずみずしい大粒の巨峰のような、くりくりのどんぐり眼は、彼のやることをいちいち真剣に見つめた。仔犬は好奇心のかたまりだった。いろいろな物をとにかく噛んでみたかった。噛んで自分の物にするかしないかを決めたかった。そして、そのつど彼に触られて、褒められたり怒られたりしたかった。彼との関係を築くことがすべてだった。
彼は仔犬にドングリと名付けた。この名前は、丸山健二氏の最高に面白いエッセイ 「ドングリの冗談ではない日々」に登場するチャウチャウ犬から拝借したものである。彼の家に来た仔犬は、チャウチャウ犬の十分の一にも満たない超小型犬ではあるが、冗談ではない日々の連続であることには変わりなかった。生き物が家の中にいる生活の 「冗談ではなさ」を彼は実感した。でもそれは決して嫌なことではなかった。好き嫌いを越えた日々の生活のはり、犬なしでは知りえなかった生活の楽しさを感じていた。
思えば、ドングリは段ボール箱の中から彼に抱き上げられたとき、嬉しくてたまらずオシッコを漏らしたのだ。いわゆるウレションというやつだが、あの瞬間、ドンクリは一世一代の掛けに出たのだろう。絶妙なタイミングのオシッコによって、犬は彼を飼い主と決め、普段あまり動じることのない彼の琴線に触れることに成功した。
あのとき三カ月だったドングリが来て、いろいろなことがあり、もうすぐ五年が経とうとしている。
一年目で、ドングリは彼のしまりのない生活を完全に変えた。彼のからだは文筆業にありがちな運動不足で弛緩しきっていた。食っても太らない体質に油断して三十年も過ごせば、外見はすっきり見えても内蔵には脂肪がついてしまう。彼自身、体力が落ちてきているのをうすうす感じていた。体力がなければ気力も続かず、集中すべきときにできず、神経の行き届いた文章が持続して書けず、したがってきちんとした仕事ができなくなる。今にしてわかったことだが、からだを動かして適度に疲れた後というのは、だらだらと机に向かっているときとは集中の度合いがまったく違う。そんなことを三十を過ぎてわかったのでは遅いが、それでもまだどうにかなるだろうう。ドングリが来なければ、彼は運動嫌いのなよなよした生活を一生続けたに違いない。ドングリの世話という有無を言わさぬ
状況が、期せずして彼のからだを鍛え直してくれた。ある日突然、妙にまめまめしく動いている自分に彼は気づき、体力がついたからだというものを初めて経験したのだった。
寝坊な犬というのがいるかどうかは知らないが、ドングリも早起きという点では主人に従うことなく自分のペースを押し通
した。妻が起きる五時頃にはドングリも一緒に起きていて、朝の快便をしに家のまわりをひとっ走りしてくる。妻によると、外に出るやいなやものすごく気持ちよさそうに野糞をするらしい。毎朝毎朝、起きるなり元気いっぱいで、立派なうんこで、ほんとにえらい。便秘気味の彼女は羨ましそうにいつもそう言った。だが妻も毎朝少し走るだけで、からだがほっそりと締まってきたようだった。少しやつれて見えたが、彼女も慣れない毎朝の散歩でくたびれているのだろう。先日、鼻血を出した が、寝不足気味のときはよく出る、と妻は言った。
彼女が豆腐屋に出かけてしまうと、ドングリは急につまらなくなるのか、午前六時には彼を起こしにかかる。最初は顔をぺろぺろとなめる。午前中に起きることなどめったになかった彼が、優しいぺろぺろぐらいですんなり起きるはずはない。ドングリは少し歯を立て、唇や鼻や頬を噛む。それでも彼は寝返りをうつ程度だ。ドングリはもう少し強く噛む。あま噛みだから叱られることはない。だが彼に起き上がる気配はない。ドングリは歯形がしっかりつくくらい噛む。痛いっ、彼に怒鳴られ、押しやられる。そうなるとますます調子にのって噛む。怒られると興奮し、思わず声が出て、体も弾む。うさぎのように飛び跳ねて彼に飛び掛かる。四キロに満たない体重でも、思いっきり飛び乗られるとけっこう堪える。彼は仕方なく上半身を起こす。ドングリは彼が起きるまで絶対に容赦しない。どんなに怒られようと、バカ犬だの狂犬だの罵倒されようと、喜んで彼にむかってゆく。そして、彼が起き上がるやいなや自分は裏返り、尻尾をめいっぱいパタパタさせてお腹を撫でてもらうのを待つのだ。誰かに起こされると無性に腹が立つ彼も、毎朝嬉しそうに飛んでくるドングリにはかなわない。
早くに起こされる彼は、午前中から仕事をするようになった。仕事といっても考える作業はできないので、前の晩に書いたものを見直すぐらいのことだが、彼がペンを握ると遊んでもらおうと飛びついてくるドングリも、キーボードに手を置いているときはなぜか邪魔をしない。彼はドングリのいたずらでキーボードが毎日何個かずつ減っていくのを想像したが、それは杞憂だった。ドングリはボールペンなら一瞬で粉々にするのに、キーボードには一切歯を立てない。本当にいけないことを言葉ではないもので感じとっているらしい。いくらダメだと言ってもまったく聞かないことがあるし、何も言わなくともいたずらをしないものもある。彼は自分の言葉ではなく気持ちを、ドングリに完全に見透かされているように思う。どうでもいいからさっさと片づけちゃえよ、ドングリはうらめしそうな目をして、仕事中の彼をじっと待っている。ちょっと待て、そう言いながら彼は、自分の方がドングリと早く散歩に行きたくなっていることに気づく。だが、彼がぐずぐずしている間にドングリは退屈で眠ってしまい、なんだか悪いことをした気分になる。
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