ドングリの長い一日

 

            

 一日のやるべきことをきちんとやり、適度な肉体の疲れとともにその日を終え、心地よい酒を飲んで、眠りに就くまでの穏やかな時間を過ごすのです。

 誰の文章かどこで読んだかも忘れてしまったが、夜ワープロを打っている横で、めいっぱい大股を開いて眠る小さな犬を見ると、彼の頭にはいつもこの文章が浮かぶ。そして、つくづく味わいのあるいい文章だなと思う。犬のいる生活は、ほんとうにこの通 りに時間が流れる。毎日毎日、ひとつひとつ、きちんと、やることをやる。大きな感情の揺れはないけれど、積み重なってゆく小さな達成感が人の気持ちを穏やかにする。単調な暮らしの中にだけ訪れるおとなの充実感を、彼は犬のお陰で初めて知った。

 大股開きでひっくり返り、白目を向いて眠りこける無防備な犬は、文章はもちろんのことテレビにも音楽にもまったく興味がない。文章を書いてどうにか飯代を稼いでいる彼のことを、ちまちました不健康なことにあくせくしやがってとでも思っているのだろう。だが彼にとって、自分の仕事にまったく理解のないものが傍らにいることはとても救いになっている。不必要に落ち込んだり、あるいは図に乗って自制心を失ったりして、冷静さを欠くようなとき、厳しく的確な反応を彼に示してくれるのはいつもこの犬のように人の事情を解さない生き物たちだ。やっかいな気分で深夜に帰宅したとき、全身喜びのかたまりとなった犬の大袈裟すぎる出迎え受ければ、彼の気持ちは犬とじゃれあううちに、自然とおさまるべきところにおさまってゆく。

 犬の最大の興味は人間と遊ぶことである。ダックスフントそれもミニチュアという犬種の特徴からか、一日中ずっと人間についてまわり、いつ遊んでくれるか、人の手があくのを片時も目を離さず見張っている。彼がトイレに入れば用が済むまで便器の下でじっと様子をうかがう。新聞を開けばその上に長く寝そべる。長い胴を最大限に伸ばし、読めるものなら読んでみろと上目遣いで彼を見る。ペンを持とうものなら字など書く暇があるなら自分と遊べと、嬉々としてペンを奪いに飛んで来る。人間と遊ぶのが好きで好きでしかたない。メシなんかよりもはるかに好きだ。犬は犬よりも人が好きである。

 おやつという言葉には弱いが、飼い主以外の人が与えても口を開けることはない。こういうところも飼い主心をくすぐる。動物としてあるまじき従順さで飼い主にはすべてをまかせているのに、他人にはめっぽう無愛想である。道端で他の人や他の犬が近寄って来ようものなら、化け物でも見るような目をして猛烈に逃げる。害を加える相手でないことはわかっていても、挨拶ひとつしない。そのくせ寂しがりやで、どうしようもない甘ったれだ。ひとり家に残されるのを何より嫌う。誰もいない部屋では悪戯すらしない。ただふてくされて寝ているだけである。まったくやっかいな犬だ。だが、やっかいな性質はそのまま飼い主の性質でもある。

           

 犬は彼の三十歳の誕生日に妻が買ってきた。その日、妻は何の前触れも断りもなく、小さな段ボールを下げて仕事先の豆腐屋から帰った。お誕生日おめでとう、彼女はそれだけ言って段ボールをちょっと掲げて見せた。彼へのプレゼントらしかった。メロンが二個入るくらいの大きさだった。まあ、こっ恥ずかしいバースデイケーキよりはましか、と彼は思った。

 だが、すぐに嫌な予感がした。よく見ると箱には小さな穴が何個かあいており、幼稚な犬と猫の絵が描かれている。妻がそれを床に置いたとき、がさりと中で音がした。

 妻がいたずらな笑いを浮かべて箱を開けると同時に、小さな茶色い生き物がひょこりと顔を出した。  仔犬は目も鼻も耳も、すべてがまだとても小さく、毛もつんつんと短い。仔犬は嗅いだこともないにおいのところへ連れて来られ、不安そうに辺りを窺っている。 「とても安かったの」妻は仔犬を箱ごと彼の方に差し出した。

 彼も妻も犬もしばらく声を発しなかった。人は犬を、犬は人を、黙ってそれぞれを見つめていた。
 妻の衝動買いはこれまでも何度かあった。食器乾燥機、電子ピアノ、按摩椅子、天井クリーナー、電動自転車、そのほか通 販の人気商品もろもろ。どれもすぐに使わなくなる。まったく使わないものもある。それでもこれまでは電気製品に限られていた。ところが今回は電子ペットなんかではない、体温のある柔らかな動物だった。

 とうとうやってしまった、彼は箱から身を乗り出している小さな茶色い生き物を見つめるばかりだった。

 今まで犬など飼ったこともなく、飼いたいとも思わなかった彼が、箱の中の仔犬を見てまず考えたのは、これから乱されるであろう毎日の生活と、仔犬をもらってくれそうな知人の有無だった。これは彼へのプレゼントであり、家でものを書く仕事をしている彼が、当然犬の世話をすることになる。妻は近所にある実家の豆腐屋を手伝いに、朝の六時前には家を出て、帰ってくるのは夕方である。だいたい、彼女が犬好きだという話も今まで聞いたことがなかった。

 案の定、始めの数日は物も食べられないほど、彼の生活は混乱した。物を読んだり書いたりするどころの話ではなかった。今後どうしようかと悩んだり、途方に暮れたりする暇すらなかった。
            

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