犬日記2000 夏 その2


8月某日 

 お盆なので道がとっても空いている
 
夕方の散歩も、朝の散歩と同じくらい街が静かで、
 ついついうろちょろ飛び跳ねてしまう。

 犬にもあまり会わない。いるのはいつも会う犬ばかり。
 ピンクの紐をつけたチワワには、池のほとりで昨日も、おとといも会った。
 明日もきっと会うだろう。
 レトリバーが紐を引きずって、ちょっと自由に歩いていた。

 公園の前でいつも立ち止まっている柴犬も、やっぱりいた。
 柴犬を連れているおばさんは、犬を連れていないおばさんと話し込んでいる。
  「人にあずけるのは心配だから……」
 そばを通りかかったとき、柴犬を連れたおばさんの声が聞こえた。


 

 

8月某日 

 毎日同じような時間に、同じ散歩コースを歩いても、
 犬にたくさん会う日とぜんぜん会わない日がある。

 今日はいろんな犬に会った。
 首輪をつけていないマルチーズ、自転車のカゴに入ったキャバリア、
 落ち着きのないビーグル、車椅子のお供をするラブラドール、
 けたたましいコーギー、疾走するダルメシアン、立ち話につきあうシーズー。
 なんかたくさんいて、逃げるのが大変だった。

 いつも通る公園の前に、クロシロの雑種とポメラニアンと柴犬がいた。
 柴犬が遠くから気づいて、ずっとこっちを見ていた。
 初めて散歩に出たときに出会った柴犬だった。
 三匹の前からなるべく離れたところを、急いで通り過ぎた。
 柴犬はしばらく見ていた。

 ペットショップの近くの駐車場で、ダックスフントが休んでいた。
 今度は逃げずに立ち止まった。
 
ダックスフントのお腹には子どもがいて、ぱんぱんだった。
 毛が少しバサバサだった。

 ダックスフントを連れたお姉さんに名前を呼ばれた。
 「もう、忘れちゃったかな」

 お姉さんがそっと手をさし出したとき、
 遠いむかしに嗅いだことのあるにおいがふっと漂った。  

 

 

8月某日 

 「ちょっと待っててね」
 留守番だ。

 これを聞くと、耳がぴくりとし、目が見開く。
  一瞬にして全身のちからが抜ける。

 玄関の鍵が掛けられたら、石のようになってひとりの時間を過ごす。

 おもちゃになんて触らない。
 テーブルにも飛び乗らない。
 寝る。
 畳もひっかかない。
 ティッシュもぐしゃぐしゃにしない。
 ぬいぐるみにマウントもしない。
 寝る。
 うんこもおしっこもしない。
 お腹が空いてもわからない。
 知らない人が入ってきても吠えない。たぶん。
 寝る。

 「ただいま」
 その声とともに、からだのちからが一挙に戻る。
 全いたずら開始。

 騒いだら、たっぷりおしっこ。
 おやつ要求。

 なんだかとてもお腹が空いていた。


 

 

8月某日 

 なに? あの伝説の犬を知らないのかい。噂にも聞かないって?
 
まあ、まだ若いようだし、仕方ないか。

 そう、犬だったらみんな知ってる話さ。ハチ公ほど有名じゃないけどな。

 もう十年も昔のことになるかな。
 神田小川町の靖国通り沿いの店、あれは金物屋だったか瀬戸物屋だったか。
 いや、もっと別の種類の店だったか。

 とにかくその店の前に、いつも犬がいたんだ。
 白い、中っくらいの大きさの、犬っぽい犬だ。
 あんな人通りの多いところで、よく暮らしていたものさ。
 昔はまだ、たちの悪いいたずらも少なかったんだろう。

 でもな、その犬は木箱に入っていて、
 木箱にはペンキで「さわるのきらい」 と、でっかく書いてあるのさ。

 お若いの、なにきょとんとしてるんだい。
 これで伝説の犬の話はおしまいだ。
  「さわるのきらい」
 いいだろ。               

 *  

 きのうの夕方、散歩をしているとき、
 ある家の前で縄跳びをしている男の子がいた。
 男の子はおそるおそる近寄ってきて、「さわってもいい?」と聞いた。
 きちんと聞いてくれたのでちょっと迷ったようだったけど、
 「ごめんね」と言って、立ち止まらずに過ぎ去った。
 でも、そのあとしばらく男の子のことを気にかけていた。
 それで、伝説の犬の話を、ふと思い出した。

 

 

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