犬日記2000 夏 その1


 

8月某日 

 犬は人のことばがわかる、とよくいう。
 それはあながち嘘ではない。

 でも飼い主のことばなら、耳で聞く前に、
 直接気持ちが伝わってくることの方が多い。

 飼い主が嬉しければ、なんだかよくわからないけれど
 嬉しくてしっぽを振る。
 飼い主が不安になれば、なんかビクビクして落ち着かない。

 飼い主が好きな人は、だいじょうぶ。嫌いな人は、こわい。

 名前を呼ばれれば、たまに無視するときもあるけれど、
 ちゃんと返事をする。
 そのときも、“呼ばれている感じ”に反応するから、
 「ネコ」でも「ワニ」でも「バカ」でも、振り向いてすっ飛んでゆく。

 さっき、気持ちよく昼寝をしていたら、
 急に、へんな悲しいような気分になって目が覚めた。

 床にきれいな猫の本と、ぐしゃぐしゃになったちり紙がころがっていた。
 ちり紙は涙と鼻水のにおいがした。

 見上げると、
 「だいじょうぶ」と伝わってきたので、安心してまたすぐ寝た。

 

 

7月某日 

 買い物好きである。
 
コンビニ、キオスク、銀行、薬屋。散歩がてらの寄り道は楽しい。

 毎日行くのはパン屋である。パン屋の名前はわからない。
 パンの名前も値段も、どこにも書いていない。
 聞いても、おじさんは間違っていることが多い。
 でも「焼きたてのパン」がいつもある。

 朝の散歩のときは店のシャッターが半分開いていて、
 機械の音が聞こえてくる。配達に行くおじさんに会うこともある。
 「おはようございます」

 夕方の散歩のときに、おじさんのパンを買う。
 「こんにちは」。
 いつも買うのはこしあんパン。これが最高に旨い。
 おじさんはいつも、いろいろなパンをおまけをしてくれる。
 「これ食べてください」
 それだけ言って袋に入れてくれる。

 定休日以外でもシャッターが閉まっていることがある。
 少し立ち止まってうろうろする。
 地面とシャッターの隙間に鼻をくっつけたりしてから過ぎ去る。

 次の日もまた、パンのウィンドー・ケースの前できちんと立ち止まる。
 何年もそうしているが、
 「こんにちは」「これ食べてください」「ありがとうございます」
 ぐらいしか喋ったことがない。

 だから毎日パン屋に寄る。

 


7月某日 

 風が強い。踏切の警報機の音が、遠くから風に乗って聞こえてくる。

 雨が降っても、風が吹いても、雷が鳴っても、一日二回かならず散歩に出る。

 雨はあまり気にならない。獣医さんも驚くが、雷はぜんぜん気にならない。
 
でも風の日は、いろいろなものが飛んでくるから、
 いちいちびっくりして逃げ回る。
 
道に散らかった葉っぱや花びらや紙くずが、カサカサと後を追って来る。
 振り返り振り返り逃げる。

 倒れた自転車や立て看板が行く手を阻んでいる。
 遠巻きにして急いで走り去る。
 
シャッターが耳のすぐ横で音を立てる。あわてて飛び退く。

 いちばん嫌なのはビニール袋だ。
 買い物をしたときに入れてくれる白いビニール袋。
 あれが風に吹かれて飛んでこようものなら、猛ダッシュだ。
 ガサ、という音がしただけでも耳がピクリと動く。

 夕立にあったとき、あのビニール袋を頭にかぶったおばさんがいた。
 はじめ何が現れたのかわからず、逃げることも出来なかった。
 おもわず吠えてしまった。

 風の強い日は、糞をしたら大急ぎで家に帰る。

 

 

7月某日 

 すこし寝坊をしただけで、道は人も車も急に多くなる。
 うるさいくらいの鳥の声が、今朝はもうあまり聞こえなかった。

 なんとなく気持ちが急いで、足が速くなる。
 暑くなりそうな日の太陽が、はやくも背中を照りつけた。

 すれ違う犬の顔ぶれも、いつもとかわる。
 小さな茶色いテリアが三匹。初めて見る顔。
 みんな違う方向へ行こうとしていた。
 一匹が口を開けて近づいて来ようとしたので、急いで逃げた。

 そういえば。
 最近あの、もじゃもじゃの毛をしたでっかいテリアに会わない。
 顔に痣のある背の高いおじいさんが一緒で、
 いつものったりのったり歩いている。
 おじいさんが着ているTシャツには、
 でっかいテリアそっくりの犬がもう一匹いて、同じ顔で笑ってる。

 おじいさんたちは、
 犬が入ってはいけない公園のまわりをのったりのったり。
 ひとっ走りして戻ってきても、数メートルしか移動していない。

 あっ。でっかいテリアとおじいさんがいた。
 後ろ姿でもすぐわかる。のったりのったり。

 ちょっとだけ近寄ってみた。
 おじいさんのTシャツの首のところに、
 でっかいテリアそっくりの小さいテリアがもう一匹いた。
 みんなくっついてのったりのったり歩いていった。

 挨拶もお喋りもしないけれど、なんか安心して家に帰った。

 

 

7月某日 

 梅雨明けの、きれいに晴れた土曜日だった。
 三日間降り続いた雨の後で、地面はたっぷり水を吸い、
 なかなか乾きそうになかった。

 まだ朝の六時前で、新聞配達の自転車のブレーキ音や、
 マンホールの中を流れる下水の音が聞こえてきた。

 いつもの朝より犬がたくさんいた。ミミズもうようよいた。

 いつもの朝より糞がたくさんでた。

 いつもの散歩コースを跳ねながら走った。

 いつもはまだ寝ている水色の家の柴犬も、もう散歩に行っていなかった。

 運動場の角を曲がると、中年の男の人が二人、
 笑いながら立ち話をしていた。
 二人とも太ったビーグル犬を連れていた。
 帽子をかぶった方の人が、おはようございますと言った。

 二匹のビーグル犬は座り込んで、おたがいに別の方向を見ていた。

 朝飯を一瞬で平らげた。
 夕方の散歩の、乾いた熱い道のことを思って寝た。

 

 

back next

 

2000年目次